比婆牛ストーリー

【比婆牛の定義】

松阪牛とか鹿児島牛など、和牛銘柄は全国にたくさん存在します。血統や飼育方法、飼育期間、枝肉の格付けなど、銘柄ごとに基準があり、それぞれ基準を満たしたものだけがそこの銘柄を名乗ってよし、という認定を受けます。比婆牛も今はその1つ。比婆牛の場合は、現在以下のような基準が設けられ、これを庄原市が認定しています。(※認定基準は、どの銘柄も変更されることがあります)

1.その牛の父、母の父、母の母の父、のいずれかが広島県種雄牛であること。
2.庄原市内で生まれ、広島県内で最終最長期間肥育されたこと。
3.肉質等級が3等級以上であること。
4.市が指定した県内のと畜場でと畜された黒毛和種の去勢牛または未経産牛であること。
5.庄原市長が発行した「比婆牛素牛認定書」を有していること。

でもこうした認定基準ができるずっと以前から、地元「比婆庄原地域」で生産された和牛肉は「比婆牛」と呼ばれていました。「比婆」は現在の庄原市ができる前にあった「比婆郡」など地域名称です。地元の人は、地元に出回る肉を「比婆牛」と呼びました。


昭和の戦後以降、日本全体では牛肉の消費量が伸びていましたが、比婆庄原地域の店では、まだ外国産の牛肉や国産牛を仕入れる必要がないくらい、和牛肉=「比婆牛」は十分な量がありました。地元では、ちょっとしたハレの日のごちそうに牛肉を買うとなれば、普通に比婆牛を手に入れることができたのです。

【比婆牛と庄原の人々】

なぜ和牛肉が身近にあったかというと、それは庄原市の歴史に関係しています。ここ一帯は、「たたら製鉄」が盛んでした。たたら製鉄は、山の砂鉄から鉄を作る技術のことです。きっかけは、毛利元就公が戦略的にこの技術を重視し、力を入れたからと言われています。このたたら製鉄には、木炭の火力が使われます。大量の木材を必要としたため、大規模な森林伐採が行われました。この木材等の運搬役を担ったのがウシでした。運搬役と言うと、ウマのイメージが強いですが、ひづめの数が1つのウマは、平地では活躍しますが山道は苦手なのです。その点、ウシは山道での労働が得意。ウシのひづめは、斜面や水田でも力が出る造りになっているのだそうです。そして伐採後の跡地では、畜産が行われるようになりました。

一方、田畑では、ウシに犂(すき)を引かせて耕すことが当たり前でした。ウシは大事な労働力で、家族も同然でした。庄原にある古い家を訪ねると、玄関を入ってすぐに牛舎があるといった構造も珍しくありません。地元の人に話を聞くと、
「子どもの頃、家にウシがいるのは当たり前だったよ。」
「家にはいなかったけど、友人宅に行くと玄関入ったらすぐウシがいてビックリしたね!」
というエピソードがたくさん。

「道の駅遊YOUさろん東城」で「ステーキハウス雄橋」、「レストランもみじ」両料理長を務める小美堂シェフもその1人でした。

インタビューでも「牛に対して親近感はありました。もっとも当時はカワイイと思う存在で、まさか食べさせる仕事に就くとは思っていませんでしたが」と笑っていらっしゃったことが思い出されます。

もっとずっと古い時代から、比婆庄原地域の人々にとって、ウシは家族の一員。でもペットとは違う。この山間地域で生きるために、働き手として欠かせない大事な存在だったのです。特にたたら製鉄で栄えた地域では、「農宝」以上の存在だったのだろうと想像できます。

【比婆牛の歴史 江戸時代~誕生】

このような背景の下、江戸時代後期にすごい畜産家が現れました。旧比和村に住んでいた岩倉六右衛門という人です。岩倉氏は、まだメンデルの法則も登場していない近世に、近代育種学に見られるような系統交配や近親交配の理論を用いて、ウシを改良することに成功しました。

これ以前のウシは、家畜として飼われてはいたものの、ほぼ放し飼い状態で交配も自然任せでした。しかし、労働力の一員(=役牛)として活躍するためには、狭い山道を歩けるように小柄で足腰が丈夫で、性格が大人しくて扱いやすく、子どもも生んでくれて、長生きする…… など人間が理想とする条件が備わっている必要があったのです。

岩倉氏の考え方と交配の技術は、比婆庄原地域に受け継がれていきました。求める条件を備えたメスとオスを計画的に交配して、理想的なウシを作り出すのです。これが「ウシの改良」の発祥と言われています。
今でも比婆牛は大人しくて、飼いやすいと生産者さんからの評判も上々です。

【比婆牛の歴史 明治時代~先進】

日本全体を見ると、明治時代になって、外国種が輸入され、在来和牛との交配が行われるようになりました。日露戦争後に海外から帰還した兵士の影響で牛肉の消費が増え始めるなど、日本の食文化が徐々に変化していく時代でした。当時はまだ乳牛と肉牛と分けて育てるという考えがなく、乳肉兼用型が良いとされていました。だから改良といっても、乳量と体重は増加したが、農耕牛としては使いづらい、肉質も悪いといったかなり雑多なウシが誕生していたようです。何とか方針を定めて、日本の暮らしに合ったウシを誕生させなければという思いの下、庄原の七塚原高原に日本初の国立種牛牧場が開設されました。

【比婆牛の歴史 大正時代~栄光】

大正時代になると、乳用種と肉用種は完全に分けられました。ウシの改良技術も進みますが、まだまだ戦争が起こると、徴兵や軍馬の徴用で農村の労働力が不足するので、役牛としてのウシの役割は大きかったようです。役牛として優秀なウシを作ることには、長けていた比婆庄原地域。優れた系統のウシを交配させ、繁殖させることでは、全国に名を馳せていきました。

【比婆牛の歴史 昭和時代~苦戦】

転機が訪れたのは昭和時代、第2次大戦後のことです。トラクターが登場し、農業用機械が普及すると、労働力としてのウシは全く必要とされなくなってしまいました。一方で高度成長期になると、ますます日本の牛肉消費量は増えていきました。それまで役牛に向くウシの繁殖地としては高い評価を得ていた比婆庄原地域は、肥育に向く(食べて美味しい肉になる)ウシへの改良を余儀なくされました。ウシの改良は、部屋の模様替えのようにはいきません。こうして、20年はかかるだろうという長い闘いが始まったのです。
そうして長い年月の努力の結果、和牛のオリンピックと呼ばれる全国和牛能力共進会では、第4回(昭和57年)・第5回(昭和62年)大会で2大会連続の全国制覇(日本一)という快挙を成し遂げ、農林水産祭では畜産業界最高の栄誉である天皇杯を受賞し、名実ともに日本一の和牛産地として名声を博しました。

【比婆牛は美味しい!】

でも…… 実は地元では、昔から比婆の和牛は、美味しいと評価されていました。実際、県外から来た人が庄原で肉を食べると「美味しい!」と驚かれることが多かったそうです。
今でも「ファミリーマートAコープ西城店」や「食彩館しょうばらゆめさくら」には、県外からもわざわざ比婆牛を買いに来るお客様が絶えません。特に「ファミリーマートAコープ西城店」は、コンビニの中に比婆牛の対面販売コーナーがあるというユニークな店舗で有名です。
サシなんて入ってなくても、歩留まりが悪くても、比婆の和牛は美味しい! そう地元の人が評価する和牛、それが本当の比婆牛なのです。

【頑張れ! 比婆牛】

それでも対外的にも「美味しい」という評価は得たいものです。しかし肉用牛としては出遅れしまった比婆牛…… 鹿児島や熊本など大規模産地に押され、一時は「比婆」という小さな地域名では勝てないのでは、という意見もあり「広島牛」という名称に統一されました。「比婆牛」と名乗ることができなくなってしまったのです。

復活を遂げたのは、2014(平成26)年。地域ブランドの原点に返り、比婆牛ブランドを振興する目的で「あづま蔓振興会」が設立されました。比婆牛の生産者、庄原市、農協が協力し合って、比婆牛のブランド化に取り組んでいくことになりました。比婆牛は前述の通り、近世に岩倉氏によって見出された「岩倉蔓」という優秀な和牛の血を絶やすことなく受け継がれ、生産されています。

【比婆牛の魅力】

なぜだか、庄原で比婆牛を食べると、都会のレストランで食べるのとは、全く違う次元の美味しさを感じるのです。聞けば、その料理人はたいてい、庄原出身の人でした。地元の人にとってみたら、子どもの頃、誕生日のごちそうに家族で食べた牛肉、思い出の味が今、たまたま「比婆牛」と呼ばれている…… そんなくらいのことなのかもしれません。

庄原の比婆牛メニューは、いつも庄原食材と一緒です。決して高級ブランド和牛とは気負わない、どこか家庭的な里山メニュー。うどんやカレー、丼など、カジュアルなメニューもたくさん! でも昔から牛肉と言えば比婆の和牛だった、そういう記憶を持つ料理人が手掛けるひと皿であったり、そういう比婆牛の高い評価を知って県外からやってきた料理人のひと皿であったりします。庄原の比婆牛メニューは、比婆牛が華々しい受賞歴や歴史があるブランド牛だからではなく、地域の人が大切に育て、ずっと地元で親しまれてきた味だから、提供されているのです。